琺瑯看板探検隊が行く

琺瑯看板考現学

学生服看板考察

甘酸っぱい青春の香り…あぁ、学生服 

今でこそブレザーが主流のようだが、昭和40年代までは学生服といえば、黒の詰襟、セーラー服と決まっていた。
かくいう私も6年間に渡って着たわけだが、詰襟が窮屈で首がすれてどうにもなじめなかった。襟の内側に付ける白いカラーを外すと、これがちょっとばかしツッパリのように見えて、服装検査でよく注意された。
私が高校生の頃の昭和50年(1975年)前後は、「役者やのォ~」の決まり文句を流行らした、どおくまんのギャグ漫画『嗚呼!! 花の応援団』(1976年)が売れていた時期であり、曲では宇崎竜童の「港のヨーコ・ヨコハマ ヨコスカ 」(1975年)が大ヒットしていた。
ツッパリ達は学ランの裏地に虎や龍、花札をあしらった派手な刺繍をほどこしたり、ズボンの裾をマンボズボンのように絞ったりしていた(スカマンと呼んだ)。髪型も蝿のスベリ台のようなリーゼントだった。
一方で、制服の裾をラッパズボンにする奴もいた。これは中村雅俊主演のTVドラマ『俺たちの旅』(1975~1976年日本テレビ放映)の影響。 NO.181
マンボだろうがラッパだろうがまったく興味もなく、騒いでいる連中を横目に僕は過ごしていた。遅刻しそうなときにはそれこそパジャマの上に学生服を着ていった。その上、毎日同じものを着ていても平気という無頓着な性格で、洗濯もせずに同じシャツを1ヶ月くらい着ていた。
このだらしなさは今だに変わらず、不惑の齢を過ぎても「また、同じ服着ているの!」と相変わらずカミさんに注意されている(笑)。
さて、そんな学生服だが、琺瑯看板の世界では35ブランドくらいはあるようで、デザインの違いを入れれば現在90アイテムを発見している。
尾崎商事㈱の「菅公」と明石被服興業㈱の「富士ヨット」が二大ブランドだが、菅公は桜田淳子、富士ヨットは山口百恵をCMに起用した。森昌子を入れて花の中三トリオとか高一トリオとか騒がれていた時期だ。
同じ年齢の私は、そんな華やかな別世界にいるタレントたちとは全く対照的だった。好きな女生徒に声をかけることもできず、太宰治の文庫本なんぞを学生服のポケットにしのばせ、うつむきながら学校に行き、帰ってくるという、けっこう暗い日々を過ごしていた。
…今から思えば、これも甘酸っぱい青春の一頁だった(笑)。
ここまで書いて思い出したが、そういえば、高一トリオと同じ頃に「スター誕生」でデビューした藤正樹という歌手がいた。
後年、事件を起こして変なところで有名になったが、薄紫色(藤色というのか)の学生服を着て歌っていたのが、キモかった。

学生服の歴史と岡山県児島地区

現代に通じる学生服の起源は東京帝国大学が1886年(明治19年)に定めた制服とされている。それ以後、中学、高校、大学で急速に広まっていく。
戦後、GHQは様々な教育改革を行ったが、学生や生徒の服装についてまでは介入しなかったために、詰襟学生服は戦後も日本の学校教育の中に生き延びることになり、現代へと変遷している。
主要生産地は岡山県倉敷市児島地区。学生服メーカーが集中し、日本国内生産量の7割を占める。全国で詰襟学生服の採用率は2000年代中盤で高校で約2割、中学校で約7割といわれている。
現在日本にある標準型学生服メーカーは、トンボ(旧テイコク)、尾崎商事(カンコー)、明石被服興業(富士ヨット)、瀧本(スクールタイガー)の大手4社とカネマツ等いくつかの中小企業である。
当サイトと相互リンクしている「お散歩Photo Album」の安部さんの研究成果によると、一般的学生服メーカー・ブランド(現存・過去)は乃木服、大臣印、忠臣服、大楠公、東郷印、大西郷印、カブト印、鳩サクラ、太陽櫻、サクラ日本、旭ツバメ、日の出桜、アサヒデフネ、日章、宝富士、平和富士、鳩五輪、ニッショウ、まるいし、ヒシビ、つちや、マルトク、オノト、丸尾(まるお)、級友印、勉強印、ホームランボーイ、銀時計印、ダイヤ、幸福印、名誉印、ほまれ印、ブルドック、ワニ錨などがあったと分かっており、ホーロー看板として現存しているものも多い。
岡山県アパレル工業組合のサイトによると、戦前から学生服の生産が急ピッチで進み、1934(昭和9年)~1937(昭和12年)に 児島で生産された学生服は、75万着を達成している。
昭和30年頃には全国シェアの7割を締め、1963年(昭和38)には、1006万着を達成し、史上最高を記録している。

全国を席巻した菅公学生服

私が琺瑯看板の存在を意識したのは、菅公学生服の菱形看板だ。
昭和46年(1971)頃、父親の実家がある秋田県に帰省したとき、日本海を走る北陸本線の車窓から、妹と一緒に次々と現れる菅公の看板を数えあったことが最初だ。
記憶の断片を紐解くと、60いくつまで数えてあまりの多さに途中で止めたことを覚えている。
当時は琺瑯看板の全盛時で、おそらく無数の看板屋敷があったはずだ。車窓から流れる田園風景に絶妙にマッチする看板屋敷が日本の鉄道風景として溶け込んでいたのだろう。
2005年からホーロー探検を始めて気づいたことは、菅公の看板が日本中に残っていることである。おそらく金鳥看板についで多いのではないだろうか。
2022年現在、 長野県と山梨県、神奈川県、東京都、静岡県を除いてほぼ全国で発見している。
岡山県倉敷市のメーカーが、琺瑯看板を使った広告戦略で全国を席巻している様は驚きである。
全国津々浦々にまで貼られた菅公看板は、学生服=官公の代名詞としてすりこまれ、いつまでも人々の記憶に残るに違いない。
この項をまとめるにあたり今後も菅公看板の追跡調査を行っていきたいと思う。未発見の都道府県もあり、地図を塗り替える作業をぜひご協力願いたい。

赤…菅公学生服 【菱形・ヨコ型】
ピンク…菅公シャツ 【菱形】
青…ボリショイ菅公学生服 【菱形・ヨコ・三角型】


【学生服看板図鑑】
※解説文引用/「お散歩Photo Album」の安部さんのご了承を得て、研究成果を引用させていただきました。

富士ヨット学生服

明石被服興業株式会社 岡山県倉敷市児島田の口一丁目3-44
1865年(慶応元年)、初代 明石役造が小倉真田帯地、細紐類の製造を開始ことから始まる。
学生服の製造は、1932年(昭和7年)。1950年(昭和25年)から「富士ヨット」「アサヒヨット」ブランドの製造開始。
戦後は子供の数が増えたこともあって学生服の需要が増加し、業績を拡大した。昭和40年代からテレビCMを積極的に展開し、山口百恵らの人気アイドルを起用し、大々的に宣伝をした。
泉麻人・町田忍著『ホーローの旅』(幻冬舎)によると、富士ヨットの命名は、日本一の富士山と地元の瀬戸内海の勇壮なヨットを合体させて決められたという。
ホーロー看板は昭和30年頃より貼られ始め、昭和35年~40年が全盛期で、代理店に任せて全国に貼られたという。現在確認できているアイテム数は7種類。
元々貼られた枚数が多くないのか、ライバルの菅公に比べて、残存数は格段に少ない。

アサヒヨット学生服

明石被服興業株式会社 岡山県倉敷市児島田の口一丁目3-44
富士ヨット学生服の姉妹品。ほとんど現存していないと思われるが、他サイトによると、姉妹品の「アサヒヨット学生服」は大型の組み看板が高知県に残っていることが報告されている。(ろんださん情報…消失確認)。
更に、近年になって熊本県でも発見した。

菅公学生服

尾崎商事株式会社 岡山県岡山市駅元町15番1号 岡山リットシティビル5階
1854年(安政元年)、初代尾崎邦蔵(中興の祖)、倉敷市児島田の口に綿糸の卸業を創業。
大正時代から学生服の大量生産を開始し、1929年に尾崎商事株式会社に改組。戦後は子供の数が増えたこともあって学生服の需要が増加し、業績を拡大した。
「カンコー(菅公)学生服」は、学問の神様として親しまれている菅原道真公にちなんで名付けられた。姉妹品には「ボリショイ菅公」のブランド名で学生服を作っている。
1970年代になるとテレビCMを積極的に展開し、桜田淳子ら、その時代の人気アイドルをCMキャラクターとして起用するのが同社のCMの特徴の一つでもある。
同社サイトの「過去のCM一覧」を見ると、1970年代はフォーリーブス、桜田淳子、香坂みゆき、80年代は太川陽介、早見優、岡田有希子、酒井法子など当時のトップアイドルを起用している。
発見した「菅公学生服」の看板は4種類。長方形のヨコ型タイプは昭和20年代から30年代にかけての初期のタイプと推測される。
ポピュラーな黄色と赤の菱形タイプは昭和30年代後半から。全国的に貼られ、金鳥の看板と並んで最もポピュラーなホーロー看板である。姉妹品として、同じデザインを使った「菅公シャツ」もある。 

ボリショイ菅公学生服・ボリショイ学生服

尾崎商事株式会社 岡山県岡山市駅元町15番1号 岡山リットシティビル5階
姉妹品の「ボリショイ菅公学生服」は、昭和33年(1958年)にロシア国立サーカス団のボリショイサーカス日本初公演が始まり、人気にあやかって名付けられたとされる。
この学生服は昭和35年にヒットする。それから推察すると、看板の作成年代は昭和30年代前半かと思われる。
これまでの発見アイテム数は5種類。菱形タイプは菅公学生服のスタイルを踏襲しているが、面白いのは三角形タイプ。鉄板の切り取りにより無駄を省くことを考慮してか、逆三角形のものもある。
これまで発見した看板の分布を探ると、菱形とヨコ型看板は関東から東北エリア、三角形看板は関東エリアを中心に貼られたようだ。
  

サンピジョン学生服

尾崎商事株式会社 岡山県岡山市駅元町15番1号 岡山リットシティビル5階
「れとろ看板写真館」のさとうさんによれば、サンピジョン学生服は菅公と同じ、尾崎商事のブランドということである。
看板のデザインを見ると、“菅公色”の黄色と赤のツートンカラーから連想できる。 琺瑯看板は残存数は少ないが、全国的に貼られたようだ。
 

太陽櫻学生服・太陽桜学生服

日本被服株式会社  岡山県倉敷市児島下の町5-5-3
創業は1863年(文久3年)。児島機業の草分け的存在で、最も早くから学生服の販売を手がけた。
「太陽桜」は創業の頃からの伝統ブランド。現在は本業の他に飲食事業を始め、岡山市を中心に「まいどおおきに食堂」を展開している。
琺瑯看板は全国各地で見つけているが、現在のところ4種類。「櫻」と「桜」の字体が異なる看板があるが、作成年代は不明。

忠臣学生服

▼西川本店(廃業) 
倉敷市児島小川にあった西原本店は、明治2年(1869)、足袋縫製業創業。昭和3年(1928)、「忠臣印」で学生服製造に乗り出すが、昭和44年(1969)1月倒産。
琺瑯看板は現在3種類発見。全国的に貼られているが、東海から関西にかけて広く分布している傾向がある。姉妹品の「忠臣服」も同様な分布。

鳩サクラ学生服

オゴー産業株式会社  岡山県倉敷市児島田の口1-11 
明治25年(1892)、織物販売の小郷商店として創業。縫製業の開始は昭和2年(1927)。昭和37年(1962年)7月、小郷産業(株)設立。
平成18年(2006)7月、民事再生法の適用を申請。平成18年9月、富士ヨットの明石被服興業が出資し、オゴー産業が設立。
「鳩サクラ」ブランドは現在も継続。 琺瑯看板は現在4種類発見。「鳩」の文字が“…”になっていないバージョンもある。全国的に貼られている。

サクラ日本学生服

▼石井産業㈱ (廃業)
岡山県倉敷市田の口七丁目2-16にあった石井産業(株)は、大正5年(1916年)創業。
創業時は織物業を営んでいたが昭和3年(1928年)、学生服製造開始。昭和22年(1947年)7月株式会社設立。平成18年(2006年)6月、自己破産。
琺瑯看板は現在1種類。全国的にもポピュラーな看板、おそらく菅公学生服についで貼られたのではないだろうか。当時の広告戦略が垣間見える。

日の出桜学生服

▼児島㈱ (廃業)
昭和14年(1939年)に山本熊一商店として創業、昭和30年(1975年)児島被服㈱、昭和45年(1970年)児島被服㈱となる。
昭和26年(1951年)、ブランドを「日の出印」から「日の出桜」に変更。 昭和29年、倉敷ビニロン系列に加盟。その後素材に帝人テトロンを使用、系列に参加。
昭和60年(1985年)、学生服のブランドを「日の出桜」から「トップメイト」に変更している。
琺瑯看板は字体と色違いとして現在3種類発見。「サクラ日本学生服」と競合して貼られた傾向もあり、全国的にもポピュラーな看板である。
姉妹品として「日の出桜スラックス」「日の出桜シャツ」を見つけている。また、児島被服㈱時代の看板を岡山県高梁市で見つけている。

つちや学生服

つちや産業株式会社  岡山県倉敷市児島味野6丁目9-2 
大正12年、下津井電鉄株式会社の創立者、永山久吉が同社の基盤確立にともない、初の系列事業として、倉敷市下津井に千里足袋株式会社を創立。
昭和18年、倉敷市味野の所在地に、つちや学生服本店として創業、昭和34年1月に法人設立、つちや学生服株式会社として事業継承する。
現在はユニホームを中心に製造。学生服は作っていないようだ。
琺瑯看板については岡山県での発見1例のみである。現存する看板は極めて少ないと思われる。

サクラサンエー学生服・サンエー学生服

株式会社ボブソン  岡山県岡山市北区平野788番地 
1950年に設立された山尾被服工業が前身であり、当初は学生服や作業着の製造販売を行っていた。1970年にジーンズの製造販売を開始、その翌年からボブソンブランドを使用している。
琺瑯看板は山尾被服時代の産物。山口県と愛媛県で発見しているが、他メーカーのように競い合って大量に貼られた看板と違って、現存するものは少ないようだ。

トンボ学生服

株式会社トンボ  岡山県玉野市八浜町大崎1212 
1876年(明治9年)に三宅熊五郎により三宅商店として創業し、足袋の製造を始めた。1924年(大正9年)帝国足袋株式会社、1944年(昭和19年)帝国興業株式会社に社名変更。
昭和5年(1930年)、アサヒトンボ印学生服の製造を始め、昭和30年(1955年)、アサヒトンボを「トンボ」ブランドに変更した。同じ年にテトロン製品の生産を開始し、1965年にトンボハイウェイ学生服の生産を始めた。現在の社名は2006年(平成18年)より。
琺瑯看板はこれまでに2枚発見しているが、数は少ないようだ。

まるまん学生服

▼岡野興業㈱ 岡山県倉敷市上富井509-3 
1919年(大正8年)、に岡野多郎松が創業(織物業)、昭和12年(1937年)より学生服の製造を始める。
昭和25年に岡野興業(有)となり、昭和25年(1953年))に学生服部門を分離し丸万被服㈱を設立。母体は岡野興業㈱。
琺瑯看板は全国に残存している。

大楠公学生服

▼児島織物㈱ (廃業) 岡山県倉敷市児島小川
明治29年(1896年)、家守善平氏が児島織物(資)として足袋製造開始。大正10年(1921年)、学生服製造開始。児島地区の学生服製造メーカーの草分けだった。
昭和7年、大阪の帽子店より「大楠公」ブランド買収。昭和51年(1975年)倒産。 看
板は関西、北陸、九州で発見。当サイトと相互リンクしている「れとろ看板写真館」には白地のバージョンも収録されている。

まるいし学生服

▼石井織物㈱ 倉敷市児島
昭和33年(1958年)設立の丸石(有)が前身ではないかと思われている。
看板は3種類発見しているが、黄色と白のツートンカラーは後述の「学生服は乃木服」に酷似している。他には学生服を着た中学生がプリントされた写真バージョンもある。

学生服は乃木服

昭和被服創業株式会社 岡山県岡山市東区西大寺中3丁目16番38号
昭和3年(1928年)、備前織物(のちの備前興業(株))により乃木将軍学生服として売り出された。昭和60年7月より備前興業(株)販売営業中止に伴い乃木服ブランドを継承、社内に乃木服事業部設置、製造販売に当たる。
看板は2種類発見している。戦前の看板には文字通り、乃木将軍が描かれたものもあった。

ニッショウ学生服

昭和被服創業株式会社 岡山県岡山市東区西大寺中3丁目16番38号
岡山市磨屋町にあった日本商工(株)のブランド。日本商工は昭和10年(1935)4月設立。昭和59年(1984)ごろなくなっている。昭和61年7月より乃木服ブランド同様、昭和被服総業(株)が継承。
看板は2種類発見している。レトロ感溢れるイラストがユニークなこともあって(?)、琺瑯狩りの対象とされたようだ。近年、消失が目立ち、残存する看板は大変少ない。

ダイヤ学生服

▼丸三㈱ (廃業) 岡山県岡山市富町二丁目3-8
丸三は昭和11年(1936年)創業。昭和25年(1950年)会社設立。2000年ごろ廃業。
特徴ある三連貼り式で、学生服がそのままデザインされたユニークな看板。“ベストデザイン賞”に選んでもいいくらいだが、組み看板だけに、欠落した状態もよく見かける。
全国的に貼られている。姉妹品には「ダイヤ服」があるが、デザインは学生服を踏襲している。

万点 マンテン学生服

▼赤崎興業(株) 岡山県倉敷市児島赤崎
赤崎興業㈱のブランドだったらしい。赤崎興業は昭和3年(1928年)設立。昭和55年(1980)ごろまでは存在。
琺瑯看板は「万点」のトレードマークがある、なしの2タイプを発見している。全国的に貼られているようだが、残存数は少ないようだ。

大臣印学生服

▼㈱背板本店 岡山県倉敷市児島下の町8-8-25
大正13年(1924年)、背板冨士太郎氏が学生服製造開始。昭和25年(1950年))、3社に分割。本家は背板被服として「大洋鳩」ブランド製造。
分家の背板本店が「大臣印」を継承。 琺瑯看板は岡山県内で2枚発見。残存数は少ないようだ。

大関学生服

▼メーカー名不明
昭和29年に誕生した倉敷ビニロン系列、その後に帝人テトロン系列に参加したメーカーには間違いないが、詳細は不明。情報を求めたい。
琺瑯看板は岡山県内で1枚のみ発見。電飾看板をの商標は清酒大関と酷似している。何らかの関連があるのだろうか。

旭ツバメ学生服

エクセル㈱ 岡山県岡山市駅元町15-1
昭和25年に創業した旭被服興業㈱(倉敷市児島稗田町)のブランド。現在は尾崎商事の子会社であるエクセル㈱が継承し製造している。
後述のサンスワロー学生服は姉妹ブランド。旭ツバメ服もあるが、これはサンスワロー学生服のデザインを踏襲している。
琺瑯看板は現在4種類を確認。全国的に残っているようだ。

サンスワロー学生服

エクセル㈱ 岡山県岡山市駅元町15-1
旭ツバメを英訳するとサンスワローになる。昭和25年に創業した旭被服興業㈱(倉敷市児島稗田町)のブランド。
現在は尾崎商事の子会社であるエクセル㈱が継承し製造している。姉妹品にサンスワロー服がある。
琺瑯看板は現在2種類を確認。これまで2例しか発見していないが、他サイトによれば全国的に残っているようだ。

サンウェーブ高級学生服

▼メーカー名不明
看板の発見例は愛媛県のみ。他サイトによると横型タイプもある。倉敷系かどうかは不明。情報を求めたい。

ナイロン学生服

▼東レ株式会社 東京都中央区日本橋室町2-1-1 
日本橋三井タワー 東レ㈱が社名を東洋レーヨン㈱から現在名に変更したのは昭和45年(1970年)なので、この看板はそれ以前のものと推測される。東洋レーヨン㈱は大正15年(1926年)創業。
「お散歩Photo Album」の安部さんの研究によると、昭和20~30年代の東レナイロン系の学生服メーカーは、明石被服興業・尾崎商事・帝国興業(トンボ)・日本商工・備前興業、赤崎興業・小郷産業・児島織物・西原本店・日本被服の10社があった。
一方で倉敷ビニロン系のメーカーは明石商事・旭被服興業・石井産業・児島(株)・背板本店・丸万被服等20社があったようです。

ワニ錨学生服

▼西山興業㈱ (廃業) 岡山県倉敷市児島下の町
「お散歩Photo Album」の安部さんの研究によると、昭和30年12月のデータで西山興業㈱のブランドであったことが分かっている。和歌山県で1枚のみ発見。

未発見の学生服看板

他サイトによれば、他にも以下の学生服看板が報告されている。
・幸福印学生服…「郷愁小路」(孫右衛門さん)
・大石印学生服…「れとろ看板写真館」(さとうさん)
・富士スワン学生服…同上
・ヒカリ富士学生服…「クエストⅢのホームページ」(クエストⅢさん)
※収集品として、日の丸服・クラボウエステル学生服…以上、「Satopis琺瑯の部屋」

Profile

つちのこ プロフィール
つちのこ
岐阜県在住。
歩き旅とB級グルメの食べ歩きが好きな定年オヤジです。 晴耕雨読ならぬ“晴読雨読”生活に突入し、のんびりとした日々を送っています。
2020年には、少年のころからの夢だった、北海道から鹿児島まで日本列島を徒歩で縦断。
旅の様子はブログ『つちのこ更新日記』で発信中です。


琺瑯看板探検隊が行く
SINCE 2005.3.17