琺瑯看板考現学
仁丹は琺瑯看板の王者
ほろ苦い、まるで砂をかじっているような味…僕がもつ仁丹のイメージである。
はるか昔、祖父さんの胡坐にちょこんと座ると、苦味がきいた仁丹特有のツーンする匂いがしたものだ。
あの頃の大人たちはだれもが仁丹を噛んでいた。親父の机の引き出しにもあったし、祖父さんのドテラのポケットにも入っていた。子供心に銀の小粒の仁丹は大人の味がしたものだった。
さて、そんな仁丹であるが、発売は1905年(明治38)の森下南洋堂の発売まで遡る。登録商標である軍人は1900年(明治33)に梅毒薬「毒滅」の商標であるビスマルク像が図案化、デフォルメされながら現在の大礼服姿のになっていったといわれている。
琺瑯看板はたくさんのバージョンがあるが、現在では鉄道系の大型看板と、京都市を中心に残ってる町名表示看板が知られている。
大阪市に本社を置く関係上、関西地方に集中的に貼られたようだ。鉄道系看板は戦前モノはほとんど残っていないようだが、町名表示看板は昭和2年以降のものが多いようである。
また、薬・日用品系の企業らしく、仁丹の他にも体温計、石鹸、歯磨き、ガム、胃腸薬、ドリンク剤などその種類も多く、琺瑯マニアにとっては人気アイテムとなっている。
仁丹の琺瑯看板のおおよその年代を知るには、登録商標の軍人マークを観察するのがよい。
ヒゲや服装が年代ごとに微妙に違っており、参考になる。詳細は森下仁丹ホームページ「森下仁丹歴史博物館」に詳しい。
鉄道系仁丹看板の分布について
鉄道沿いの民家や蔵に貼られた巨大な仁丹看板の分布をみると、特定の鉄道沿いと一定のエリアに貼られている傾向が分かる。
東海道本線に集中的に貼ったのは、どんな意図があったのか定かではないが、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、大阪に至る沿線に多く残っていることを考えると、一日の本数が多い当時の大動脈にポイントを絞ったということが想像できる。
特に岐阜県関ヶ原から滋賀県米原、更に彦根から大津にかけての琵琶湖線(東海道本線)沿線には集中的に貼られた感がある。「仁丹」だけでなく、「リミー」や「仁丹ガム」といった丸型のタイプの看板も多い。
また、東海道本線以外には、三重県松阪市を中心とした近鉄山田線沿線にも多く残っている。「真珠漬」の看板と競い合うように貼られた形跡が伺える。更に、山陽本線沿いにもわずかに残っている。
現在残っている鉄道系の仁丹看板は、東海地方と関西地方の東海道本線、近鉄本線、山陽本線沿いとわずかである。伊豆、神奈川県でも貼られている。また、近年、埼玉県内の東北本線沿いでも発見された(2012年3月撮影)。
四国、九州にはないようで、貼られたエリアも限定されているところから、昭和30~40年代のホーロー看板を使った広告戦略の一端が見えてくる。