琺瑯看板考現学
破滅型の実力派演歌歌手、オミズのハイアース
芸能界では彼のことを親しみをこめて「オミズ」と呼んだ。
酒におぼれ借金にがんじがらめになって、破滅に向かって突き進んだ水原弘。彼と琺瑯看板とはどうみてもリンクしそうもないが、彼は看板の中に今でも生き続けている。
私は幼少の頃から演歌が大好きないわゆるマセたガキで、今でも昭和30年代後半から40年代にかけてのヒット曲を口づさむことができる(笑)。
いわゆるテレビっ子として育ったことは疑う余地もなく、もちろん水原弘の印象はしっかり保存している。後年になって水原弘を書いた評論が出たり、番組でとり上げられたりして、ちょっした水原ブームが起こったが、興味を持ってしっかり目を通している。
水原の伝記として、村松友視が「黒い花びら」(2001年河出書房新社)を書いている。当時主宰していた自分の書評サイトでこの本を取り上げたので、ここで紹介したい。
▼書評 村松友視著『黒い花びら』(2001年河出書房新社)
水原弘という歌手をご存知だろうか?40代以上の方なら一世を風靡したこの大歌手を覚えているだろう。
昭和33年、デビュー曲の「黒い花びら」(永六輔作詞・中村八大作曲)で第1回日本レコード大賞を獲り、昭和42年には「君こそわが命」で奇跡のカムバック、そして昭和58年、巡業先の福岡で肝硬変悪化による静脈瘤破裂により、42才という若さで壮絶死を遂げた歌手である。
私にとっての水原弘の記憶は、「君こそわが命」から始まる。この歌は“奇跡のカムバック曲”といわれたが、もちろん、当時小学校に上がったばかりの私は、そんなことは露ほども知らなかった。
相手をにらめつけるような上目遣いで、ドスが効いた低音で唄う姿は、子供心にも侠気迫るものとして印象に残っている。100万枚以上売れたレコードだけあって、30年以上経った今でも、私は曲のフレーズを覚えている。
それだけ当時の町角にはこの曲が流れていたのだろう。今のちり紙交換のように、軽トラでスピーカーから曲を流しながら、大判焼やわらび餅をよく売りにきていた。テレビの歌謡番組よりもこうした日常の生活の中で、私たちはいくつものヒットソングを覚えていった時代だった。
テレビのブラウン管からぷっつりと消えた水原弘の消息が、遠い記憶と重なるように再び僕の中に蘇ったのは、新聞の死亡記事だった。“壮絶死”“借金”“放蕩三昧”…当時の新聞や雑誌で水原について書かれた見出しである。
著者は、水原の半生を、「酒・遊び・借金」、そして「破滅に向かった無頼派」という言葉で表現している。毎晩のように高級クラブをはしごして、一晩で何百万円もの金を飲み代に遣い、その場にいる人たち全員におごるという気風の良さ。たえず10人以上の取巻きが彼の周りにたむろし、借金を重ねていくという生活。
そして、どん底の生活を経験した中から生まれた大ヒット…過去の夢を追って再び派手な生活を繰り返し、借金を返済するために弱った体を酷使して、42才の若さで逝ってしまうという破滅型の人生を、最後には“水原には唄うことがすべてだった”と締めくくる。
この本を読むと、著者は水原と同年代であり、そして熱烈なファン、編集者としての仕事を通して多少の接点があったようだ。
それだけに、無頼派と表現する水原に対する思い入れは強く、その破滅の人生を描き切ることによって、“無頼とは何か”を問いかけている。
著者は、前著『トニー谷ざんす!』では、芸人トニー谷をもって“毒の花”という言葉で表現した。
水原弘にしろ、トニー谷にしろ、私たちが見ている彼らの姿は昼間の仮の姿に過ぎず、本当の姿はもっと別の、私たちが想像もできないような崇高な空間にあることを語っているような気がするのである。(2001.2.12つちのこ記)
▼ハイアースの概要 (出典参考:Wikipedia)
アース製薬株式会社は、1892年創業。東京都千代田区に本社を置く、殺虫剤など衛生薬品の製造・販売を行っている日用品製造メーカー。
1929年に発売された殺虫剤「アース」から社名を取っているが、1969年倒産し、大塚グループの資本下に入った。大ヒット商品に「ごきぶりホイホイ」がある。
1970年に大塚グループに入ったことを考慮すると、看板の製造年は1970年代といえる。水原弘のハイアース看板は現在4種類が存在している。
楕円形タイプ2種類、大型正方形タイプ、張り出しタイプである。中でも関西地方にしか存在しない楕円形タイプと張り出しタイプの“笑う水原”は超レアものである。
ちなみに水原弘と由美かおるが「アース」のCMに出演したのが1970年である。「ハイアース」の前身の「アース」看板は4アイテムほど見つかっている。(以下)