ホーローの旅
レポート181 ごちゃまぜミニ探検10
2008.9.24-2009.1.25
東京都千代田区~中央区、愛知県名古屋市、福井県坂井市、岐阜県中津川市、美濃市~郡上市~高山市、多治見市、可児市、京都府京都市、富山県高岡市
2008年の棚卸しをすると、探険回数は43日で終わった。
ちなみに看板探しを始めた2005年は99日、2006年は56日、2007年は37日だった。
探険回数が減っているのは、単にモチベーションが落ちたわけではなく、日帰り圏内は大方回っているということもあり、泊まりの探険を中心に計画してきたことにもよる。
いずれにしても、2009年は激減してきた看板たちの最後の姿を追って、再訪、再撮影も含めて計画を立てていきたいと思う。
さて、10回目を数える今回の「ごちゃまぜミニ探険」であるが、投稿者の皆さんから情報提供をいただいき撮影できたものや、再訪し、再撮影をしたお宝が並んだ。
中でも、秋田から遊びに来た叔父さんを案内した際に、投稿者のウシ君さんからの情報のもと、長野県妻籠宿で見つけた「優等清酒 鷺娘醸造元」の酒看板は印象に残るお宝である。
清酒の看板には、蔵元の酒造りの情熱と町の歴史が詰まっている。その背景を追っていくだけでも、ホーロー探険の遊び心を充分に刺激する。
特に、すでに廃業した蔵元や今はない銘柄の看板を見つけることは、私の探険魂を大いに揺さぶり、くすぐるわけだ。
「鷺娘醸造元」の看板をよく見ると、“長野縣木曽吾妻村”“奥谷吟醸”となっている。木曽吾妻村は1961年に田立村、読書村と合併し、現在の南木曽町に至っている。吾妻は南木曾町吾妻であり、妻籠宿の脇本陣がある地名となる。
更に調べていくと、蔵元名の「奥谷」とは、脇本陣の造り酒屋であった林屋の屋号ということも分かってきた。林屋は江戸時代中期から酒造業を始め、「鷺娘」は大正から戦前(昭和8年)にかけて造られた銘柄であるということだ。
戦時中には厳しい酒造規制のもと、多くの酒蔵が廃業に追い込まれたが、林屋も例外ではなかったようだ。
酒蔵廃業から80年あまり経った平成19年には、幻の酒「鷺娘」を復活させようとする事業が始まり、2008年4月に出来上がった純米吟醸酒がお披露目された。
こうした歴史を辿ると、看板は80年も前のものということが分かる。それだけでも感慨深いものがあるが、一枚の看板から、酒蔵や町の歴史、当時の社会背景が浮き上がってくることが素晴らしい。
今更であるが、ホーロー看板を探す旅は、過去を遡行することにより旧きものの素晴らしさを知り、同時に新しきものの素晴らしさを再認識するという、知的な遊びなのだ。
酒看板の話題をもうひとつ続ける。 岐阜県可児市兼山町(旧兼山町)で見つけた「清酒烏峯泉」(うほうせん)について触れたい。
この看板は兼山町の造り酒屋、伊藤酒造㈱の銘柄であるが、蔵元には看板は残っていない。これまでの探険で確認した枚数は、地元兼山町で4枚、多治見市で2枚のみである。
伊藤酒造は1909年(明治42年)創業で、兼山町には数十軒の酒蔵があったようだ。現在は伊藤酒造一軒を残すのみとなっている。「烏峯泉」の看板は、大型の鉄道系看板であり、JR太多線沿いと廃線になった旧兼山駅前に残っているところを推測すると、いずれも車窓からの宣伝を意識して貼られたことが伺える。
名鉄八百津線旧兼山駅跡地に立つ小屋にはタイプが違う「烏峯泉」の看板が2枚貼られていた。いつからこの看板が貼られたのか知るよしもないが、2001年9月の廃線までは多くの乗客の目にこの看板が触れたのだと思うと感慨深い。
71年の歴史に終止符が打たれた駅舎は現在では跡形も無く、線路も撤去されて更地となっていた。
ただ当時の駅前の姿を伝える「烏峯泉」の看板が残る小屋だけが、雑草に覆われてひっそりと残っているのは、寂しい風景だった。
琺瑯看板はその耐久性から、何十年経っても作られた当時の輝きを放っている。京都市内に残る仁丹の町名看板版は大正から昭和初期にかけて貼られたという。
大礼服を着た軍人の商標を指でなぞると、当時の琺瑯職人が一枚一枚丹精を込めて作った歴史を感じずにはいられない。
旧きものと新しき文化が融合し、渾然一体となっている京都でさえ、今では仁丹の町名看板も激減しているという。100年近くも前の町名がそのまま生きているのも驚きであるが、辻辻に貼られた仁丹看板を頼りに町を歩くことも、この先できなくなってしまうかもしれない。
繰り返しになるが、2009年は、残されたそんなお宝たちの、“最後の輝き”を撮るために、旅への拍車をかけていきたいと思う。
(2009.1.12記)
※画像上/冬の風物詩、吊るし柿の風景。長野県妻籠宿。
※画像中/夕暮れ時の高山市の町並み。市内には8軒の酒蔵がある。写真は深山菊酒造場。
※画像下/岐阜県可児市兼山町の町並み風景。