琺瑯看板探検隊が行く

ホーローの旅

レポート303 日本最北端へ、さいはてホーロー紀行 後編

2014.5.4-5
北海道紋別市~興部町~下川町~名寄市~美深町~音威子府村~浜頓別町~稚内市~豊富町~中川町~幌加内町~砂川市~深川市~旭川市


探検レポート303

▼5月4日
霧が立ち込めた紋別の町を後にする。
オホーツクラインと呼ばれる国道238号線を北上し、オムサロ原生花園が広がる台地に出ると、肌にまとわりつくしつこかった霧も晴れた。
原生花園の中にはオムサロ遺跡があり、縄文以前の約1万年前の住居跡が保存されている。
クルマを止めて、遺跡が残る丘陵に立ち、古代人も朝夕見ていたであろう、雄大なオホーツクの海を眺めてみた。
朝日に輝く眩しい海を、目を細めて見ている自分が、なぜそこにいるのか、不思議な気がした。
おそらく、36年前の19才の旅も、そんなことを考えながら北の景色を眺め、磁石に引き寄せられる鉄くずのように、更に北を目指していたんだろう。
確かに、北に近づくにしたがって、言葉では表現できない寂寥感と孤独感が増幅していくのを感じる。
55才にもなって、青臭くセンチメンタルなことを言ってるかもしれないが、そう思うからしょうがない。
少年の感性を少しだけ持った、今はどっから見てもおとっっあんでしかない、オヤジのクルマは、沙流岬から興部の町に入り、ここでいったんオホーツクの海と別れた。
このまま海岸線を北上し、浜頓別に出てもお宝に出会う確率は低いと考え、遠回りになるが、内陸の小さな集落を拾いながら、名寄経由で再びオホーツク海岸にある浜頓別の町を目指すことにした。
興部町は「おこっぺ」という。不思議な読み方だが、北海道には難読地名がゴマンとあるから、別に驚くことでもない。
町名の由来は、アイヌ語で「オウコッペ」(川尻の合流しているところ)からくるそうだ。

探検レポート303

その興部の中心部を過ぎ、左右に広大な牧草地を見ながら西に進むと、「ジューキミシン」を貼ったサイロのような建物や、「宮田自轉車」の組看板が貼られた廃屋を見つけた。
小さな集落には家もぽつぽつとしかなく、人の気配を感じないが、自転車屋が残っていることから、以前はもっとにぎやかだったかもしれない。
興部から名寄に向かう国道239号線は標高300㍍の天北峠を越えていく。
途中に映画のセットにでもなりそうな木造の小学校や雪を抱いた山が見えたりするから、長いドライブも飽きさせない。
下北町から名寄市に入ると、「サンヨー洗濯機」や「清酒男山」の看板が車窓を過ぎていく。人の住むところには、ホーロー看板ありである。
名寄市は2008年9月に訪ねているが、JR宗谷本線沿いで看板屋敷を見つけた思い出の地だ。
屋敷の位置も地図にメモしておらず、6年前のことなのでうろ覚え状態だったが、意外にもすんなりと屋敷の前に立つことができた。
看板屋敷は以前と同じ状態で残っていたが、帰宅してから画像を比較してみると、3枚の看板が貼られた位置が変化していた。
おそらくこの家のご主人が移動させたものだろうと思うが、欠落に任せて看板がどんどん減っていくよりも、こうして保存していただいたほうが、我々、看板マニアにとってもうれしく思う。
名寄からはJR宗谷本線に沿って、ひたすら北上していく旅となる。

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車窓の左には雄大な天塩山脈が広がり、すそ野まで雪で真っ白だ。 無人駅のJR北星駅の前には、熊笹に埋もれるように「毛織の北紡」の組看板が貼られた待合小屋があった。
他サイトでも掲載された小屋だが、その前に立ってみると、あまりの小ささに驚いた。
吹雪いている冬の季節は、ここで暖まりながら一両電車を待ったのだろうか。小屋の中にはダルマストーブもあった。
美深町から音威子府村を過ぎ、国道275号線を浜頓別に向かう。いかにも北海道らしい広大な緑の牧草地と、雪を抱いた山が連なる。
そんな風景の中にも、「石炭」や「ナショナル電球」「清酒男山」の看板が現れ、退屈しないドライブを提供してくれた。
オホーツク海を間近に見ながら浜頓別市街地から国道238号線に入ると、あとはひたすら北上するだけだ。 ハンドルを取られるほど風が強い。
民家も無く、空と海と台地の、境目がはっきりしない鉛色の陰気な風景がひたすら続いた。
144時37分、私は日本最北端・宗谷岬に立った。
三角に尖った最北端の碑に立ってみると、体がもってかれそうな風が吹いていた。19才の旅では、せっかく稚内まで行ったのに、悪天に阻まれて岬に立つことを諦めてしまった思い出がある。
おそらくまだ若かったし、きっと再訪のチャンスがあると判断したんだろうと思う。36年間待たせてしまったが、大きな宿題をやり遂げたようで、それだけに、ただ単純にうれしかった。

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▼5月5日
朝7時、稚内駅にほど近い、素泊まりの民宿を出た。
昨日は宗谷岬に立ったあと、稚内市内にお宝の姿を求めてずい分探してみたが、看板屋敷はおろか、単品の看板でさえ、結局、一枚も見つけることができなかった。
自分の中では、“日本最北端のホーロー看板”というフレーズが浮かんで、心なしか期待していたが、それも叶わなかった。
諦めきれないので、豊富町までのルートでは海岸線を回る県道106号線沿いと、JR宗谷本線沿いの県道510号線沿いの双方を走ってみたが、JR勇知駅近くの民家で「お茶は宇治園」の看板を見つけただけで、何も収穫はなかった。
こうなると、あとはひたすらドライブに徹するだけだ。遠くに浮かぶ利尻島を見ながら、サロベツ原野をひたすら南下する。
19才の旅では、稚内から連絡船に乗り、利尻島に渡った。
目的は利尻岳(1721㍍)を登ることにあった。船酔いでヘロヘロになって鴛泊港に着き、素泊まりの民宿に泊まって、食パンをかじった。
翌朝、残りの食パンをザックに入れて利尻岳を目指した。文字通り、海抜ゼロメートルからの挑戦である。
山岳部で鍛えていた体力である。あっという間に登頂し、昼過ぎには下山していた。更に、汗が渇くことなくきびすを返して、自転車で島一周(56キロ)も行った。
夕方には宿に戻って、ひとり祝杯を挙げていたことを覚えている。 体力がありあまっていた頃の話である。
そんな“美しい”思い出とは裏腹に、体力がなくなったおとっっあんの一人旅は、ひたすらハンドルを握るだけで、どんどん時間が過ぎていった。
豊富からはJR宗谷本線に沿って南下していく。天塩山脈のふもとに広がる中川の町を過ぎ、音威子府村を経由して美深町に入った。
ここからは国道275号線を走る山越えルートである。朱鞠内湖がある幌加内町に入ると、いきなり冬の風景となった。

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さすがに道路には雪がないが、周りは真白である。そんな風景の中でも、小さな集落や民家がぽつぽつと出てくる。
目を凝らして看板を探していくが、何も見つけられない。 ようやく雪が消えて、幌加内町の市街地に入ったところで、新聞とトタン板の看板を見つけた。
この辺りは蕎麦の産地のようで、「幌加内そば」の幟をいくつか見かけたが、結局、立ち寄ることもなくそのまま走り続けた。
耕された広大な農地を突っ切るように、真っ直ぐに伸びる国道を走ると深川市である。ゴールの旭川市も近い。
深川は何度もホーロー探検で訪れたエリアなので、帰ってきたような、懐かしさを感じた。
36年前に体験した旅のカケラを、ほんの少しでも拾うことができれば…という気持ちで臨んだ一人旅だったが、気がつけば、あっという間に終わってしまった3日間となった。
肩に食い込むザックを担ぎ、野宿を繰り返しながら北を目指した19才の経験は、おそらく、今も旅を続ける自分の原風景になっていると思う。
あの頃の好奇心旺盛で無垢だった自分はとっくに消えてしまったが、これからの人生にほんの少しでも少年の感性を持ち続けることができたなら、今回のホーロー旅も、まんざらじゃなかったと思いたい。(おわり)
(2014.9.27記)
※画像上/宗谷岬。日本最北端の碑。飛ばされそうなほど風が強かった。
※画像中/映画のセットにでもなりそうな木造の小学校。興部町。
※画像中/JR宗谷本線北星駅。「毛織の北紡」の看板が貼られた小屋が見える。
※画像中/サロベツ原野から見る利尻島。真っ青な空の下、雪を抱いた山が浮かんでいた。
※画像下/美深峠から幌加内町に繋がる国道沿いは深い雪に閉ざされていた。
※宿泊/宿泊/旅の宿うぶかた(稚内市) 素泊まり4320円。歩いていける範囲に食事する場所がないのが残念。☆☆★★★



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Profile

つちのこプロフィール
つちのこ
岐阜県在住。
歩き旅とB級グルメの食べ歩きが好きな定年オヤジです。 晴耕雨読ならぬ“晴読雨読”生活に突入し、のんびりとした日々を送っています。
2020年には、少年のころからの夢だった、北海道から鹿児島まで日本列島を徒歩で縦断。
旅の様子はブログ『つちのこ更新日記』で発信中です。


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