琺瑯看板探検隊が行く

ホーローの旅

レポート404 奥州街道ホーロー歩き旅

2024.4.5.17-21
埼玉県草加市~越谷市~加須市~栃木県宇都宮市~さくら市~矢板市~那須塩原市~福島県白河市~矢吹町~須賀川市


探検レポート404

4月の日光街道に続いて奥州街道を歩く旅をした。 五街道の最後を飾る旅である。
日光街道の旅では、スマホの画像を誤ってすべて消去するというへまをやった。
埼玉県の草加市から栃木県の日光市まで歩いた4日間で撮影した50枚のホーロー看板の画像も消えてしまったのだ。
これがものすごいショックで、しばらくの間立ち直ることができずに落ち込んでしまった。どうしても諦めきれず、今回は奥州街道の歩き旅に合わせて、日を割いて宇都宮までのルートを再度トレースし、ホーロー看板を撮影するリベンジを盛り込むことになった。

▼5月17日
午後0時48分到着の高速バスを使って東京に入った。
東京駅からはJRと地下鉄で草加市の谷塚駅へ。日光街道の旅では日本橋から歩いてきたことを思うと、あっという間に埼玉県である。
ここから北越谷までは消失した町名看板の画像を再撮影すべく、前回と同じルートを辿っていく。
10㎞を歩き、8枚の町名看板を撮影して北越谷を後にした。時間があれば幸手にある『ミツカン酢』のある看板商店にも立ち寄りたかったが、不本意だがJR宇都宮線沿いにある金物屋を優先した。
日が長くなったとはいえすでに夕暮れが迫っている。下車した駅から往復4㎞を歩いて目的の『コーキンルーフィング』をスマホに収めることができた。
画像を消去してしまった看板は他にもたくさんあったが、リベンジはここまでとし、明日からは気持ちを切り替えて奥州街道に向かうことにした。

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▼5月18日
今回の計画は旧奥州街道を栃木県の宇都宮駅から福島県の須賀川までの約115㎞を歩く旅である。
五街道完歩が大きな目的であるが、旅の道中でホーロー看板を見つけることができれば申し分ない。 こ
れから4日間の歩き旅でホーローの神様は微笑んでくれるだろうか。そんな気持ちを胸に一歩を踏み出した。
快晴の空の下、宇都宮駅前のカプセルホテルを出て歩き出す。予報では気温が30度近くになるらしい。
宇都宮宿を離れ、白沢宿に向かうとすでに町の面影はなくなり、田植えが終わったばかりの田園風景が広がった。
白沢宿には古い建物もあまり残っておらず、本陣跡には民家が建っていた。
白澤の一里塚を左に見て鬼怒川を渡ると河川敷ではバーベキューを楽しむ家族連れもいて、テントを張るにはもってこいのロケーションが広がっていた。
そう、今回はテント持参である。計画では、宿が確保し難い初日の喜連川宿と二日目の鍋掛宿で、二日連続の野宿をするつもりなのだ。 テントや寝袋、炊事用具をパッキングしたザックは約6キロ。これ以上重たいと歩くスピードが落ちるので、今回は思いっきり軽量化を図った。
気温がぐんぐん上がり、旅の初日にしてすでに暑さに参っている。昨年の同じ時期に四国遍路で、暑さでヘロヘロになって歩いていたことを思い出した。
4年前の日本縦断から始まった歩き旅は、中山道、東海道、四国遍路、甲州街道、日光街道と続き、これが最後を飾る五街道歩きとなる。
しかし、奥州街道は青森まで延びる国内最長の旧街道で、今回歩くのは奥州道中と呼ばれる白河を越えて、一日分距離を延ばした須賀川宿までだ。
どのみち中途半端なのでそれほどの高揚感もない。ゴールをしてもおそらく達成感も沸かない予感がする。
ともあれ、過去の歩き旅ではマメの痛みに耐えながらもよくもここまで続けてきたことに我ながら呆れるが、歩くことが好きなのでこればっかりは仕方がない。

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元気なうちは、次々に目標を立てて歩くことをずっと続けるんだろうなぁ…と思う。
わずかに氏家宿で見つけた酒免許や電話1番の看板以外ほとんど出会うことなく26㎞を歩き、14時30分に喜連川宿の道の駅『きつれがわ』に到着。
ここにはテントサイトもあり、芝生の敷地内には土曜日とあってテントが4~5張あった。完全予約制のようだが、道の駅の管理事務所で尋ねると、料金は一泊5800円という。クルマもないし、ほんの小さなテント一張で5800円はありえないプライス。 オートキャンプ客もソロの私のようなバックパッカーも同じ料金とは…。
オートキャンプがあたり前の昨今では、ソロキャンプの料金設定をしていないケースも多いようなので仕方がない。しかし、ホテル並みのこの金はさすがに出せないので、諦めて野宿場所を探すことにした。
とはいえ、まだ太陽は頭上にある。 暗くなるまではテントは張れない。コンビニで食料を調達し、喜連川の町内を歩き回って、ようやく見つけたのが葦が茂る荒川の河川敷。すぐ近くには町経営のミニゴルフ場もあり、犬の散歩をする人やウォーキングをする人で賑わっていた。
河川敷の堤防にあるベンチに座って、人がいなくなる夕刻まで過ごす。 時間つぶしのためにザックに忍ばせた500ページの文庫本がこんなときに役立った。
一方で軽量化を図ると言いながら、こればかりは必要装備なのだ。マダニとツツガムシのリスクを鑑みると、葦や雑草が茂る河川敷は快適とは言い難いロケーションだったが、一晩の我慢だ。
星がきらめく月夜が、静かに更けていった。

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▼5月19日
野宿の一夜は、暗くなれば眠るだけ。疲れていたのか20時過ぎに就寝した。
早朝4時にテントを叩く風の音とやかましいほどの野鳥の鳴き声で目覚めた。
シュラフにくるまってまどろんでいると、遠くから近づいてくる人の足音が。テントの脇を過ぎたと思ったら、戻ってきて立ち止まった。
(おい、おい、まさか注意されるんじゃないだろうか)
(まだ、4時だぞ…)
そんなことを思って息を殺していると、踵を返して足音の主は去っていった。それにしてもまだ薄暗いこんなに朝早くから、道も不確かな河川敷を散歩(?)する人がいるとは。
テントは緑色だし、葦に隠れて遠目でも見えないロケーションに張っている。まぁ、先方からしたらそれこそ河原乞食かホームレスが野宿しているとでも思ったかもしれない。
街中での野宿にはリスクがつきものだが、熊やイノシシなど野生動物よりも、人ほど怖い存在はない。できるなら寛容な態度でそっとしておいてほしい。
昨年の四国遍路は人々の優しさと寛容さにずいぶん救われた。 全国広しと言えども、人家のすぐ近くで安心して野宿ができるのは四国くらいだろう。昔からお遍路さんに優しい文化が根付いたからこそだと思う。
警察に通報されるのも嫌なので、慌てて朝食のパンをかじり、朝露に濡れたテントを撤収した。
日曜日の早朝、人影もない喜連川宿を通過し、内川を渡ってからだらだらと続く緩い登り坂を歩き、佐久山宿に入った。

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佐久山は那須与一で有名な那須一族の発祥の地といわれているが、彼の人物には興味がない。それよりも芭蕉の奥の細道の句碑のほうにそそられた。
これまでの歩き旅で芭蕉の足跡をいたるところで見てきたが、その行動範囲には心底驚かされる。 高名な俳人というよりも、彼の人には今に通じるバックパッカーとしての偉大な先駆者のような親近感がある。
空海や円空、芭蕉や山頭火。 中途半端に歩き旅をかじっている私は、やっていることも彼らの足元にも及ばないし、もちろん単なる遊びでしかないその足跡は、後世に残るはずもない。
さて、天気は下り坂のようだ。 今日はスタートからどんよりとした曇天。
予報を確認すると夜には雨が降り出し、明日はけっこうな荒天となるらしい。 野宿は諦めるとするか…。
もともと積極的に野宿するつもりもないし、根が軟弱なので易きに流れてしまう。
楽天トラベルを検索すると、鍋掛宿からJR黒磯駅方面に4㎞ほど北上した那須川温泉にあるホテルがヒットした。 昨日の喜連川では温泉にも入っていないので、気持ちはすぐに温泉になびいてしまった。
すかさず予約ボタンを押して、素泊まり6300円が決まった。 こうなるとあとはのんびりと歩くのみ。
仁王像が安置されている愛宕神社や金燈籠が残る大田原宿を時間をかけて見学しながら通過。 鍋掛宿の手前から旧街道を逸れてホテルに向かった。
15時に『那須川温泉ホテルアライ』に到着。 まだチェックインには早いので、そのまま黒磯駅方面に向かい、ヨークベニマルで晩メシを調達し投宿した。
ザックを背負った私を見て、ホテルのスタッフ曰く、「奥州街道歩きですね」と一言。 この宿は旧街道から近いので、ひんぱんに同志が泊まるようだ。
「明日は大荒れみたいですよ。ゆっくり温泉に浸かってくださいね」
スタッフの一言で、根がケチでデリケートにできている軟弱な自分に少しばかし後ろめたさを感じながらも、野宿を回避した賢明な判断に改めて頷くのだった。
そうそう、歩いたことの話ばかりでホーロー看板についても触れなければならい。
結論から言って、この日はまったくの不発に終わった。新聞や消火栓、禁煙、明治牛乳のベンチ。看板出会うこともない街道歩きである。
奥州街道にはもはや看板は残っていないのか。初見のお宝との偶然の出会いがあれば嬉しいが、それも夢に終わるのだろうか。

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▼5月20日
予報は当たり、雨の朝を迎えた。
6時に起床し、7時まで様子をみるが、雨は激しくなるばかりで、窓を叩いている。これではとても出発する気になれない。 8時近くまでふて寝を決め込んだ。
どのみち10時のチェックアウトで、ホテルからは追い出される。往生際が悪いが、出発するしかない。
雨具上下に傘、ザックカバーで防水対策をした完全装備で一歩を踏み出した。
ホテルから鍋掛小学校前を通り、鍋掛宿がある県道72号線に合流した。
途中で行違ったランドセルを背負った小学生たちと、「おはようございます!」のあいさつを交わす。 うん、うん、なかなか躾けられている。
単なるあいさつだが、されどあいさつ。こうした習慣は都会に行くほど希薄になるような気がする。
鍋掛宿から雨に煙る那須川を渡り、越堀宿に入った。 そこからは富士見峠までだらだらと登りが続き、それに合わせるように雨がいっそう激しくなった。
「寺子の一里塚」の碑がある公園には東屋が建っており、ここで大休止。
周りに民家はあるが、こっそりとテントを張れたかもしれない。しかし、残念なことにトイレや水場がない。
更に進み、余笹川を渡る手前にある余笹川見晴らし公園は、東屋もあり野宿にはもってこいのロケーションだった。

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天気が良ければ、高いホテルに泊まることもなく、ここまで踏ん張れただろうに。 まぁ、後の祭りだが…。
止まない雨にうんざりしながら夫婦石の一里塚過ぎ、芦野宿に入った。
旧街道は国道294号線から逸れており、ここには歴史資料館もあり、古い建物もそこそこ残っていて奥州街道の宿場にあっては歴史を感じた。
そのまま旧街道を歩いて宿場を出ると、国道294号線に合流し、食堂や地産地消の物産を並べる施設に出た。
朝食はパン一個だったので、空腹だ。 まだ11時前とあって食堂は開店しておらず、客がいないことをいいことに、物産店を一人で切り盛りするおばちゃんと世間話で時間をつぶした。
おばちゃん曰く、「ここから先、白坂まで店もないし、食べるところもないよ」 地獄に仏とはこのことだ。
このまま進んだら、空腹でもだえ苦しんでいたかもしれない。これを教えてくれただけで、おばちゃんの顔が観音様に見えた(笑)。
開店と同時に食堂『あしの食堂』に飛び込んで、日替わりランチのしょうが焼き定食をがっつりといった。
店を出ると雨が上がっていた。雨具を脱いで、県境に向かって歩く。
県境には、栃木県側に「境の明神」と呼ぶ玉津島神社があり、福島県側には住吉神社があった。
ともあれ、日本橋をスタートした日光街道の旅から数えると、東京→埼玉→栃木ときて、東北の福島県で4つ目の県に入ったことになる。
本陣跡を含めてほとんど何も残っていない白坂宿を通過し、緩い下り坂をどんどん下りていくと白河の市街地となった。
戊辰の役、白河口古戦場跡地を見て、旧街道をそのまま進むと急な坂道となって稲荷山を越えた。
民家が密集する道を抜けると、遠くには西日に輝く白河小峰城の天守がどーんと見えた。
予約したホテルはすぐ近くだった。 まだ日は高いので、脇本陣跡まで行ってみる。
午前中、雨に打たれ続けたシューズの中は乾ききっておらず気色悪かったが、とりあえずは奥州道中を白河までゴールした。
雨に打たれて、ただ黙々と歩いただけの一日となってしまったが、五街道歩きの一区切りをつけたことには感謝である。
今回もつけたしのようで心苦しいが、この日もホーロー看板との出会いはほとんどないまま県境を越えることになった。

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▼5月21日
すっきりと晴れ上がった空の下、白河市内を抜けて須賀川に向かう。
白河から先は青森県津軽半島の三厩まで続く奥州奥道中と呼ばれ、85の宿場があったといわれている。
おそらくこれに踏み込んだら数年かがりのチャレンジになりそうだが、熊野古道や二回目の四国遍路など、その前にまだ行きたいところがあるので、今回はほんのさわりの須賀川まで歩いて打ち止めにする。
白河宿の脇本陣や本陣跡がある国道294号線を進み、「せんだいあいづの碑」がある交差点から北に直角に曲がった。
阿武隈川を渡り、仙台藩士戊辰戦争慰霊碑を過ぎると二又分岐となり、右に行くと奥州道中で、左に直進するのが会津街道である。
分岐からすぐには昭和29年(1954)建立の「遊女志げ女の碑」があり、説明文をじっくり読んでみた。 かなりドラマチックな話で、戊辰戦争の時、会津藩士に誤解によって殺害された志げを、遊女屋の下男が仇を討ったという。
明治になって新政府による仇討禁止令が出される前後の話だと思うが、このところ吉村昭の仇討に関する小説を読んでいるので、これは興味深い史跡だった。
国道4号線に入り、根田宿から小田川宿に進むが、戊辰戦士供養塔の石仏や石塔があるくらいで、休むことなく歩く。

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しばらく行くと雑木林の中にたたずむ武光地蔵(首切り地蔵)が見えた。 これはけっこう不気味なロケーション。 こういうのは近づかないに限る。見なかったことにして先を急ぐ。
奥州街道は集落ごとに小さな宿場があったようで、太田川宿、大和久宿、中畑新田宿と歩き、比較的大きな町となった矢吹宿に入った。
矢吹町には本陣跡の碑や造り酒屋大木代吉店の古い建物も残っており、帽子が飛ばされそうな強風にあおられながら歩いた。
天気は良いが、風が冷たくて寒い。 休むと寒くなってくるので、黙々と歩く。
ホーロー看板との出会いは低調のままここまで歩いてきたが、この日は違う。 投稿者のとらのしっぽさんから教えていただいた看板商店に立ち寄る。
店舗に隣接した倉庫には酒看板や肥料看板がびっしりと貼られていた。 『谷の越』『奥の松』といった地元の酒蔵の看板もあり、ご主人の許可をもらって撮影することができた。
須賀川市内に入ると、国道4号線の切通しの旧街道に一里塚を見て、そのまま市の中心部に向かった。
本陣跡や芭蕉の碑なども残り、宿場としてはかなりの規模のようだ。
そして、須賀川が生んだ「二人の円谷」。 須賀川市はマラソンの円谷幸吉と特撮の円谷英二の功績をたたえる町づくりを推進しているという。
市内の目抜き通りにはウルトラマンや怪獣フィギュアが展示されており、面白い。
小学校に上がったばかりの頃、リアルタイムで見ていた『ウルトラQ』の人気者カネゴンやガラモンには、懐かしさで涙がこみ上げそうになった(大げさ)。
15時。須賀川駅近くのホテルに投宿し、宇都宮から始まった4日間、124㎞の旅を終えた。
今回は距離も短く、雨にやられたこともあってモチベーションが今一つだった。
さて、この続きはいつになるやら。 歩くことも看板探しもこのまま中途半端には終わりたくない。
もう少し気持ちを熟成させてから、チャレンジしてみようと思う。
(2024.6.16記)

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※画像上/丘の上から俯瞰した田園風景。福島県矢吹町。5月21日
※画像中/三度目の再訪となった越谷宿の金物店。埼玉県越谷市。5月17日
※画像中/週末のキャンパーで賑わう鬼怒川を渡った。栃木県氏家。5月18日
※画像中/喜連川宿近くの河川敷でテントを張った。野宿の一夜を楽しむ。栃木県さくら市喜連川町。5月18日
※画像中/レトロな建物が残る早朝の喜連川宿を歩く。栃木県さくら市喜連川町。5月19日
※画像中/可憐なヒメジョンの花が咲く農道を歩いた。栃木県那須塩原市。5月19日
※画像中/雨の中歩いた芦野宿のメイン通り。栃木県那須塩原市。5月20日
※画像中/馬頭観音、念佛供養塔、二十三夜塔等が一列に並んでいた。栃木県那須塩原市。5月20日
※画像中/正統派白河ラーメンを食す。鏡石『ラーメンうさぎ』(特製中華1000円)。福島県鏡石町。5月21日
※画像下/須賀川市に入るとウルトラ怪獣たちが出迎えてくれた。ガラ玉、ガラモン。福島県須賀川市。5月21日



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Profile

つちのこプロフィール
つちのこ
岐阜県在住。
歩き旅とB級グルメの食べ歩きが好きな定年オヤジです。 晴耕雨読ならぬ“晴読雨読”生活に突入し、のんびりとした日々を送っています。
2020年には、少年のころからの夢だった、北海道から鹿児島まで日本列島を徒歩で縦断。
旅の様子はブログ『つちのこ更新日記』で発信中です。


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